人と対話しているようで、自分と対話しているだけなのかもしれない

投稿者: | 2025年8月8日

思ったことをつらつらと。

人と対話しているようで、自分と対話しているだけなのかもしれない、そんなことをふと思う。

そういう意味では、愛というのは自分の中にしか存在しえず、愛するというのは心の中の他者であって、外側ではないのかもしれない。

つまり、そこに心の中の他者と外側の他者にギャップが生じる。

心の中の他者というのは、期待とかそういうものなのかも。

こうあってほしい、こうあるべきだ、そんなもの。

で、外側の他者には、それぞれ意志があり、別で考えている。

そこにギャップが生じる。

小さなギャップであれば問題無いけど、大きなギャップだと、関係がこじれてしまう。

内側と外側のギャップは、感情と言っても良いかもしれない。

本当は単なる差分なのだが、それをデータ、情報として捉えることができないという話。

もし、データとして捉えることができれば、つまり現象をそのまま受け入れることができれば、おそらく悲しみや苦しみが無くなるだろう。

そして、楽しみも無くなるような気がする。

それは、コンピュータに対して情報を入力している状態に近い。

コンピュータには感情が無い。

というか、そもそも内側での予測や期待が無い。

ただ、受け入れるだけ。

そう考えると、人類が行き着く先は、やはりAIなんだろうなと思う。

もしくは、それに抗う人たち。

どちらが良いとか、悪いとかではなくて、どちらに進みたいかだけだろう。

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