
思ったことをつらつらと。
ある人物から、xxするべきと要求された。
要求とは、相手に要望を強いる行為である。
その時点で、対等な関係ではないのではないか。
人間関係においては、相手にしてほしいことではなく、自分がしたいことを言うべきではないだろうか。
結局のところ、相手を変えることはできず、相手を変えたいのであれば、その対価を支払うのが対等な関係ではないだろうか。
相手にxxを要求するのであれば、自分もxxを差し出さなければならない。
等価交換。
相手だけに何かを強いるのは、やはり強要でしかない気がする。
そこに齟齬というか、誤解というか、すれ違いというか、端的に言えば、意見の違いが出る。
というか、意見の違いでもないのか。
結局のところ、誰を主体に話すかの問題な気がする。
相手を主体にして話していたのが問題なのだ。
相手に執着しているから、相手の話になる。
そうじゃない。
自分はどうしたいのかしか、人間関係においては、話すことができないのではないだろうか。
それが対話じゃないのだろうか。
相手を変えようとする、相手を操ろうとする、相手を動かそうとする。
その事自体が、そもそも変なのだ。
ロシア、ウクライナでどちらが問題なのかと言えば、ロシアだと多くの人が思うだろう。
それは戦争を仕掛けた側だからかもしれない。
しかし、そもそもは対話をすることを拒否しているのが問題ではないのか。
ロシアとして、自分たちは何をしたいのか?がわからない。
ウクライナを支配したいのか?
支配した先に何があるのか?
目的が明確ではない。
世界を統一したいのか?
ロシアは何をしたいの?
プーチンは何をしたいの?
経済的な成長を望んでいるのであれば、別にウクライナを支配する必要性はない。
単純にロシアの版図を広げたいだけなのか?
なぜ、版図を広げたい?
理由がわからない。
支配領域を広げることで、偉くなるのか?
それも違うだろう。
結局、自分の中の本当の欲望というか、望みを言わない限り、対話は成立しないし、人間関係はいつか破綻する気がする。
なぜなら、虚構だから。
嘘だから。
ウクライナを変えるのではなく、ロシアが変わらなければならないという話。
ウクライナが欲しければ、そう宣言すればいい。
過去の歴史がとか、NATOがとか、そういう話じゃない。
本音が見えないのだ。
ロシアがプーチンが、ウクライナを攻めた先に、何を求めているのか。
そしてそれは、人間関係にも同じことが言えそうだ。
何を自分が望んでいるのかを、言わない限り、伝わらない。
迂回した話をしたところで、伝わらない。
どうやっても無理だ。
察してくれなんて、都合が良すぎる。
脳と脳がLANケーブルで繋がっているわけじゃない。
Wi-Fiだって繋がってないのだ。
相手の考えていることなど、わかりようがないではないか。
だから、話すしかない。
対話するしかない。
相手に要求するのではなく、自分が何を望んでいるのかを発信し、相手の意見を聞く。
そこが最初の一歩じゃないだろうか。
何で欲望を隠そうとするのか?
欲望は醜いものだと、教えられてきた。
欲望を解放することは悪だと教えられてきた。
でも、本当にそうだろうか?
欲望の行使が問題であって、欲望について話すこと自体は、悪いことではないと思う。
話すこと自体、悪いとなれば、それはまさに言論封鎖だし、表現の自由を奪われることにほかならない。
だから、もっと自分の欲望というか、望みをちゃんと言うべきなんじゃないかって話。