崇高な人間ばかりの社会って、AIによる社会なのかもしれない

投稿者: | 2025年6月18日

先日読んだ本で、みんなが素晴らしい人間になるべき的な話があって、ちょっと考えたことをつらつらと。

各個人が崇高な人間、合理的な経済人など、ある程度定義されるならば、それはもはや民主主義ではない。

全員が同じように考え、合理的に動くわけで、同一の人間と一緒なのだから。

結局、個々の違いをどうするか?であって、その時に全体主義なのか、個別主義なのか、バランスをとるのか?ぐらいしか方法はないのでは無いか?

または、同じような集団で国家を分けるか、同じような属性が集まれる国家を作り、それを移動するか。

同じような属性の人たちが集まり、楽しいのだろうか。

まあ、楽しいのだろう。

面白いのか?

うーん、個人的には面白さを感じることができない気がする。

結局、苦しさ、悲しさなどのネガティブなことも、大切な気がしてきた。

それがあるから、幸福も感じられる。

だから、楽しい、面白いと感じられるのでは?

解脱して、心が落ち着くとして、そこには趣すらないような気がする。

なぜなら、趣を感じること自体、快と言えるからだ。

結局、すべてを受け入れて、その上で、悲しみ、苦しみ、楽しみ、笑い、泣き、怒ることが、人間らしさなのでは無いだろうか。

うーん、わからんね。

解脱って、AIみたいな感じがしなくもない。

なら、解脱する必要がない。

AIに任せれば良いのだから。

そう考えると、崇高な人間ばかりの社会って、AIによる社会なのかもしれないとか思ったりした。


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