
先日読んだ本で、みんなが素晴らしい人間になるべき的な話があって、ちょっと考えたことをつらつらと。
各個人が崇高な人間、合理的な経済人など、ある程度定義されるならば、それはもはや民主主義ではない。
全員が同じように考え、合理的に動くわけで、同一の人間と一緒なのだから。
結局、個々の違いをどうするか?であって、その時に全体主義なのか、個別主義なのか、バランスをとるのか?ぐらいしか方法はないのでは無いか?
または、同じような集団で国家を分けるか、同じような属性が集まれる国家を作り、それを移動するか。
同じような属性の人たちが集まり、楽しいのだろうか。
まあ、楽しいのだろう。
面白いのか?
うーん、個人的には面白さを感じることができない気がする。
結局、苦しさ、悲しさなどのネガティブなことも、大切な気がしてきた。
それがあるから、幸福も感じられる。
だから、楽しい、面白いと感じられるのでは?
解脱して、心が落ち着くとして、そこには趣すらないような気がする。
なぜなら、趣を感じること自体、快と言えるからだ。
結局、すべてを受け入れて、その上で、悲しみ、苦しみ、楽しみ、笑い、泣き、怒ることが、人間らしさなのでは無いだろうか。
うーん、わからんね。
解脱って、AIみたいな感じがしなくもない。
なら、解脱する必要がない。
AIに任せれば良いのだから。
そう考えると、崇高な人間ばかりの社会って、AIによる社会なのかもしれないとか思ったりした。