
確かに見た目は大きく違う。
しかし、その違いというのは、遺伝子においては数パーセントでしかない。
つまり、種としてはニアリー、近い位置にいると言える。
ネコを、ネコ足らしめている理由は何か?
その外見だろうか?
たとえば、耳を怪我したネコはネコではないのだろうか?
いやネコだ。
そう、身体の一部が無くなって、ネコはネコなのだ。
それは人も一緒だろう。
じゃあ、どこまでいけば、ネコじゃなくなくなるのか?
ネコの身体を移植したらどうだろう?
身体の何パーセントを移植したら、僕はネコになれるだろうか?
明確な数値がでるだろうか?
なんとなく、そのあたりは曖昧な気もする。
おそらくだが、不気味の谷に近いデータがでる気がする。
ある一定のところで、急に僕はネコになるのだ。
ただ、見た目だけネコで、脳が人間だったら、それはネコなのだろうか?
人間の言葉を話すネコは、ネコなのだろうか?
哲学対話をするネコは、本当にネコと言えるのだろうか?
そこには賛否ありそうな気がする。
つまり、外見がネコならネコ派と、中身もネコじゃなきゃネコとはいえない派だ。
ここで少し視点を変えてみよう。
ライオンがネコである可能性はどのぐらいだろうか?
ネコ科だから、ライオンもネコと言えそうな気もする。
いや、ライオンはライオンだろうという人もいるだろう。
そういうふうに分類してるんだから。
確かにその通りだ。
しかし、ここで疑問が生じる。
別に、ライオンを、ライオンネコという名前にして、ネコであると言うこともできるのではないか?という疑問だ。
何が言いたいのかというと、結局、ネコかネコじゃないのかは、人間が決めているということだ。
外見がネコならネコ派と、中身もネコじゃなきゃネコとはいえない派に分かれたのも、結局は個々人が決めている判断基準に過ぎない。
ということはだ、世界中の人が、僕をネコだと判断すれば、僕はネコになれるということになりはしないだろうか?
自分がめちゃくちゃ金持ちで、全世界の人に1億円を配れるだけでの財力があったとしよう。
僕をネコと認定してくれれば、1億円をあげると言ったら、多くの人は、僕をネコだと言ってくれそうである。
もちろん、反対する人もいるだろう。
しかし、過半数の人が、僕をネコだと言えば、僕はネコになれそうな気がする。
ただ、僕は全世界の人に1億円を配れるほどの財力を持ち合わせていないし、今後もそれほどのお金を稼ぐことはできないだろう。
そういう意味では、僕がネコである可能性は限りなくゼロに近い。
やはり僕はネコになることはできないのだろうか?
さらに、考えを深めてみよう。
そもそも、ここで言うネコとは、ネコ科の動物のことである。
しかし、ネコという言葉には他にも意味があるのだ。
そうタチとネコのネコである。
であるならば、僕はネコである可能性がでてきた、というか、タチとネコについては、基本的に自称である。
ということは、僕はネコだと宣言すれば、100%ネコになれるのではないだろうか?
つまり、何が言いたかったのかというと、僕がネコである可能性はあるということだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そして、意味もない。
言ってしまえば、意味無しジョーク。