
思ったことをつらつらと。
礼って異物排除システム
先日、荀子 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典を読んで、礼についてふと思いました。
ああ、礼って異物排除システムなんだなと。
礼儀作法とか、マナーとか、そういうのも同様です。
つまり、自分たちのルールがあって、そのルールからはみ出した行為をする人を見つけるためののものという話。
どうしてそういうルールなのかはわからないけれど、本質はそこでは無いのだろうなと思ったり。
ローカルルールとか、方言とかもそうかな。家庭内ルールとかもそうです。
結局、様々なコミュニティにおいて、ルールが存在し、それは異物排除システムとして機能していると思います。
諍いのない理想的な社会は文化を破壊しないと訪れないかも
で、そういったルールというか、それぞのれの文化があって、それが諍いのもとでもある気がしました。
なので、最終的に諍いのない理想的な社会って、文化を破壊しないと作れないのかもなあと。
全員が同じルールの下で動けば、すべて合理的に物事を進められる気がします。
諍いが起きたとしても、全員が同じルールで動いているので、罰則なども含めて、納得しやすいでしょう。
ただ、それはディストピア感満載だなあと。
諍いのない社会はDNAに反する気がする
また、多様性を求めるならば、サイコパスやシリアルキラーだって受け入れなければいけないのでは?という疑問でも書いたのですが、結局我々の根幹にはDNAがあります。
DNAは多様性を求めるというか、多様性によって生き抜いたシステムです。
諍いのない理想的な社会というのは、そのDNAというシステムとは反します。
つまり・・・人間はどうやっても競い合うことしかできないという結論になってしまうなあと。