自分の中にある世間の目は幻想では?という話

投稿者: | 2025年3月15日

思ったことをつらつらと。

世間の目とは何か?

よく世間の目が気になるって言うことがあります。

自分もたまに使ってしまうなあと。

で、この世間の目って何かな?って思ったわけです。

常識的なもの?

自分の周囲にいる人?

全然関係ない人?

慣習?

何か、どれもぼんやりしてませんか?

世間の目がぼんやりする理由

世間の目っていうのは、他者からの視線や評価と言われています。

ここで問題なのは、他者という点。

他者の考えって、どうやってもすべてを把握することはできません。

結線したとて、1人が限界。

人間の脳は、複数のことを同時に考えて処理はできないためです。

だから、どんな評価がくだされるのかって、わかりません。

さらに、時代の変化によっても評価が変わります。

例えば、昔は電車でもタバコが吸えるのが常識でした。

しかし、今は違いますよね。

そして、常識も捉えることができません。

なので、ぼんやりするわけです。

すべては相対的に決まる

ある行動が、他者の行動で決まるとするならば、常に相対的な評価になると言えます。

つまり、世間の目というのは、相対的な評価でしかないのです。

さらに言えば、自分というものも、他者がいなければ確立が難しいでしょう。

世界に人間が1人しかいなかったら、誰もその人間を評価することもできません。

評価が自分しかおらず、自分の考えがすべて是であり、そもそも評価もいらないでしょう。

何をしても、誰も文句は言いませんからね。

世間の目が存在しないわけです。

世間の目って本当に存在してる?

ここまで述べてきたことをまとめると、世間の目とは相対的な評価で計測できない、常に変化し、捉えることができないことがわかります。

こんなことを言ってしまったら、世間から批判を浴びるかもしれないと思って情報発信したら、逆に世間から称賛されたり、逆に炎上したり、状況や時代によって結果は大きく変わるでしょう。

つまり、何が言いたいかというと、自分の中にある世間の目というのは、幻想にすぎないということです。

実際に表に情報を出さないと、結果はわかりません。

自分の中であーだこーだ考えたところで、それは幻と変わりがないのではないでしょうか。

かと言って、まったく何も考えずに発言した方が良いとは言いません。

個人的には、世間の目ではなくて、道徳とか、倫理とか、法律とかが1つの指標になるんじゃないかなと。

ただ、それも変化するので、あくまで参考でしかありませんが。

それでも、世間の目という他者の評価よりは、正しい判断ができるのではないかなと思っています。


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