
思ったことをつらつらと。
世間の目とは何か?
よく世間の目が気になるって言うことがあります。
自分もたまに使ってしまうなあと。
で、この世間の目って何かな?って思ったわけです。
常識的なもの?
自分の周囲にいる人?
全然関係ない人?
慣習?
何か、どれもぼんやりしてませんか?
世間の目がぼんやりする理由
世間の目っていうのは、他者からの視線や評価と言われています。
ここで問題なのは、他者という点。
他者の考えって、どうやってもすべてを把握することはできません。
結線したとて、1人が限界。
人間の脳は、複数のことを同時に考えて処理はできないためです。
だから、どんな評価がくだされるのかって、わかりません。
さらに、時代の変化によっても評価が変わります。
例えば、昔は電車でもタバコが吸えるのが常識でした。
しかし、今は違いますよね。
そして、常識も捉えることができません。
なので、ぼんやりするわけです。
すべては相対的に決まる
ある行動が、他者の行動で決まるとするならば、常に相対的な評価になると言えます。
つまり、世間の目というのは、相対的な評価でしかないのです。
さらに言えば、自分というものも、他者がいなければ確立が難しいでしょう。
世界に人間が1人しかいなかったら、誰もその人間を評価することもできません。
評価が自分しかおらず、自分の考えがすべて是であり、そもそも評価もいらないでしょう。
何をしても、誰も文句は言いませんからね。
世間の目が存在しないわけです。
世間の目って本当に存在してる?
ここまで述べてきたことをまとめると、世間の目とは相対的な評価で計測できない、常に変化し、捉えることができないことがわかります。
こんなことを言ってしまったら、世間から批判を浴びるかもしれないと思って情報発信したら、逆に世間から称賛されたり、逆に炎上したり、状況や時代によって結果は大きく変わるでしょう。
つまり、何が言いたいかというと、自分の中にある世間の目というのは、幻想にすぎないということです。
実際に表に情報を出さないと、結果はわかりません。
自分の中であーだこーだ考えたところで、それは幻と変わりがないのではないでしょうか。
かと言って、まったく何も考えずに発言した方が良いとは言いません。
個人的には、世間の目ではなくて、道徳とか、倫理とか、法律とかが1つの指標になるんじゃないかなと。
ただ、それも変化するので、あくまで参考でしかありませんが。
それでも、世間の目という他者の評価よりは、正しい判断ができるのではないかなと思っています。