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個人的に思ったことをつらつらと。
目次
AIを使うと、文章に魂がこもらない
最近、AIを結構ガンガン使っています。
様々な使い方を試しつつ、AIによる文章生成支援の可能性を考えているという感じ。
で、先日、AIを使うことに反対する方と、いろいろと深い話をしてきました。
これはあくまで個人的な感覚ですが、仰りたいことは、すべてよくわかるなあと。
その中で、自分自身でも感じている、共感できる点として、「AIを使うと、文章に魂がこもらない」という話がありました。
一晩寝て朝起きた時、ふと思ったのです。
果たして、「文章に魂をこめる」とは、どういうことなのだろう?と。
実際に、AIに文書生成をたくさんさせていますが、個人的に今のAIの出す文章は、クソだと思うことが多いです。
では、その理由とは何なのだろう?というのを少し掘り下げて考えてみようかなという話。
アナログからデジタルへ
まず、最初に考えておきたいのは、アナログからデジタルへの移行です。
現在、多くの文筆家と言われる方たちは、PCなどを使って文章を書いていると思います。
しかし、昔はアナログ、つまり原稿用紙に鉛筆なり、万年筆なりで書いていたわけです。
では、デジタルに変化した昨今、文章に魂はこもらなくなったのでしょうか?
あるなしで話すとちょっとわかりにくいかもしれませんね。
原稿用紙に書いていた際の入魂率を100%としましょう。
では、PCで書いたときは、入魂率はどうなるでしょうか?
これが「文章に魂をこめる」とはどういうことか?の最初のヒントになりそうです。
文筆家すべての人に聞きたいなと。
文章に魂を込めるのが重要だとするならば、PCで文章を書くことで、入魂率が下がるなら、原稿用紙で書くべきじゃないのかということです。
文章生成AIの文章がクソだと自分が感じる理由
これはあくまで個人的な見解です。
文章生成AIの文章がクソだと自分が感じる理由は、無駄が無いこと。
近年のAI能力の向上はすさまじく、非常に簡潔で、効率的で、わかりやすい文章を出力できるようになりました。
もはやビジネス文書的なところでは、AIが書いたほうが圧倒的に良いなと思えるほどです。
合理的に考えれば、もはや人間いらないかなと。
では、小説はどうでしょうか?
個人的に小説も出力させてみましたが、無駄が無いので、ストーリーをサクッと知ることができ、よくできています。
結構前に、Youtubeなどで公開されているファスト映画が問題になりましたよね。
個人的に、AIの出力する文章は、そのファスト映画みたいだなと感じました。
無駄がないことは情報伝達という意味では重要です。
効率性を考えるなら、間違いなくAIに文章を書かせた方が良いでしょう。
つまり、逆に言えば、非効率なこと、無駄な部分こそ文章において重要というか、無駄な部分こそ意味があるのではないでしょうか?
人間は意味を付与することで価値が生まれる
少し話というか、視点を変えてみます。
人間とは何でしょうか?
これには様々な回答があるでしょう。
過去の哲学者の言葉もたくさんありますし。
で、今回は文章にフォーカスして考えてみます。
これはあくまで個人的な考えですが、「人間とは意味を付与する生き物」なんじゃないかなと。
例えば、20年使っているボロボロの財布があったとしましょう。
情報として、20年使っていること、ボロボロなこと、財布という感じ。そのままですが。
しかし、その財布は、亡き恋人からの贈り物だったとしたらどうでしょうか?
そうすると、ボロボロみえた財布が、逆に恋人への想いを大切にしているんだなと感じるはずです。
そこに価値が生まれます。
これこそが、実はとても大切なことというか、「文章に魂をこめる」ということの一端なのでは?と今の自分は考えています。
もしそうであるならば、前述のアナログからデジタルになったとしても入魂率は100%のままと言えるでしょう。
大切なのは、文章を書くツールではないからです。
またAIが書いた文章に魂がこもっていないという点とも整合性が取れます。
なぜなら、AIというのは、情報の最適解を出力するものだからです。
意味を付与する文章をAIに書かせれば良いのでは?
意味を付与する文章をAIに書かせることで、文章に魂をこめることができるかもしれません。
これは全然あり得る話だなと思いました。
ただ、その意味は、AIが付与したものです。
もっと言うと、書いている人間が付与した意味ではありません。
ここが、文章においてもっとも重要なのではないか?というのが今の個人的な見解。
それがAIであろうと人間であろうと違いは無いと個人的には思っています。
ただ、人間が意味を付与する場合、その人間の個性がでるわけです。
それが魂をこめるということなんじゃないかなと。
先程の20年使っているボロボロの財布を例に考えれば、ボロボロになったのは交通事故にあったからという意味を付与することもできるでしょう。
他にも様々な意味が付与できます。
どんな意味を付与するのか?
それこそが文筆家に求められていることではないかなと。
そして、意味を付与するのに必要なのは、情報以外の部分であり、情報としては無駄な文章というわけです。
いや、正確には無駄というよりも、情報として不要な部分と言った方が良い気がしますね。
間違えることが人間の特権
最後に、さらに違う視点から。
以前、AIの話 アイデアが生まれるのは人間の誤作動が原因かもという内容を書きました。
要点をGeminiにまとめてもらうと、
もっと端的に言えば
AIは過去のデータから最適解を出すことに優れているが、真に人間的な創造性は持ち得ない。創造性はむしろ「誤作動」から生まれる可能性があり、AIに意図的に誤った出力をさせることで、人間を超える創造性を獲得できるかもしれない。
という感じ。
言いたかったことは、間違えることが人間の創造性の根源ではないか?という話。
AIは今後、どんどん間違えない方向に進んでいくと思います。
AIは間違えなくなり、人間は間違え続けるわけです。
ぶっちゃけて言うと、少し前の変な出力をしていたAIの頃の方が、創造性を感じたのではないでしょうか?
皆さんはどうですか?
変な出力のAIの方が、そこに人間が勝手に意味を付与して、面白がっていたり、クリエイティビティが刺激されたりしなかったでしょうか?
つまり、何が言いたいかというと、人間というのは間違う生き物であって、だからこそそこに創造性が生まれ、新しい考え、価値観が生まれるのではないか?という話。
大いに間違っていこうということです。
まあ、間違うのは、嫌なものですが(笑)
失敗しない、花も枯れない人生が良いというのは、誰しもが思うことだと思いますし、自分もそう思います。
ただ、間違えないことを重視しすぎると、AIには絶対に勝てないというのは、間違いなさそうです。
そして、間違いもまた、人間が魂をこめる場所になりうるのではないかなと個人的には考えています。