個人的に思ったことをつらつらと。
生きにくい社会と言われ
今の時代は生きにくに社会と言われたりすることもある。
生きにくいとは、どういうことだろうか?
単純に考えれば、生きていくことが大変ということだが、その大変さは人によって異なるだろうと思う。
お金の問題だったり、仕事の問題だったり、人間関係の問題だったり。
そもそも問題がないことが問題になることすらある。
そう考えると人間というのはある意味、贅沢な生き物かもしれない。
自ら問題を抱え、その問題に悩み、生きづらいと感じ、自らを憐れむ。
なぜなら、問題の多くは、本当は問題ではないことがほとんどだからだ。
どんな問題であれ、その問題から逃げることができるという点で。
逃げられないこともあるという意見もあろう。
しかし、すべてを捨ててしまえば、逃げられない問題などない。
捨てることができないから、逃げることができないのだ。
そして、捨てないと決めたのは自分自身であり、自分で自分の退路を塞いでいるにすぎない。
今の社会は、死にやすい社会だろうか?
逃げ道にはいろいろとある。
ただ、究極的な逃げ道というのは、やはり死だろう。
で、ふと思うのだ。
「今の社会は、死にやすい社会だろうか?」
と。
これについては、誰しもが同じように答えるだろう。
「死ににくい社会だ」
と。
文明が進むことによって、人間はどんどん死ににくくなってきた。
まだまだ文明が行き届いていない場所はある。
しかし、100年前と比べれば、全体的に死ににくい社会になっていることは間違いないだろう。
人は無理やり社会に生かされているのではないか?
常識とか、道徳とか、倫理とか、人間関係とか、様々なものによって、人は縛られ、そして生きることしか選択ができない状態になってはいないだろうか?
自ら死を選択する権利
では、逆に死にやすい社会だったら、生きやすい社会なのだろうか?
死にやすいというと、死の危険が常につきまとっているような環境と違いがわかりにくそうだ。
だから、自ら死を選択できる社会と言った方がよいかもしれない。
そして、その選択を容認する社会。
なぜなら、今の社会においても自ら死の選択をすることは可能だからだ。
しかし、道徳とか倫理とか様々な事柄によって、自ら死を選択することは、間違いだとされている。
つまり、容認されていない。
ただ、少し考えてみてほしい。
かなりの重病で、常に体中に痛みが伴い、治る可能性がゼロだった場合、残りの人生をずっと苦痛の中で生きていかなければいけないとしたら、どうだろうか?
それはある意味、拷問ではないのか?
本人が死を望んでいるのに、それを他者が止める権利があるのか?
もちろん、説得するという行為自体は問題ないと思う。
それでも、本人が望んだ場合、果たして死の選ぶ権利を、他者が握っていることは正しいのだろうか?
自分が当事者だったらどう思うか?
例えば、あと10年、拷問され続けることが確約された未来に、希望を持てるだろうか?
生きづらさの本質
生きづらいと感じる本質は何だろうか?
貧乏だから生きづらいのか、人間関係でトラブっているから生きづらいのか、その本質はなんだろう?
これはあくまで個人的な考えだが、「生きづらさの本質は選択できるかどうか」だと思う。
もっと言えば、「生きづらさとは選択肢が無い状態」ということだ。
冒頭で書いたように、どんな問題も逃げることが可能だ。
逃げるという選択肢がある。
しかし、その選択肢を奪われている状態だと、生きづらいと感じるという話。
貧乏だったとしても、様々な選択肢があって、そこから生き方を選べるのであれば、生きづらさを感じにくいのではないだろうか。
お金持ちだったとしても、レールが引かれ、それ以外の道を選択できない状態だったら、生きづらさを感じるのではないか?
もちろん、貧乏であることで、選択肢の幅が狭められてしまうことはあるだろう。
しかし、選択肢が無いわけではない。だから、貧乏=生きづらいではないと思う。
あくまで、選択肢が無いこと、もっと言えば、自分の意志を行使できない状態と言えるかもしれない。
つまり、自由意志がない状態だ。
死ににくい社会は、生きづらい社会
ここで話を戻そう。
自ら死を選ぶ権利が無いとしたら、それは選択肢を奪われていると言えないだろうか。
他者に生殺与奪の権利を奪われてしまうのは、まさに自分の意志が行使できない状態。
もしかすると、病気の苦痛よりも、拷問よりも、この自由意志を奪われることの方が、人間の尊厳を奪っているかもしれない。
そう考えていくと、死ににくい社会は、生きづらい社会なのだろうなとも思う。