賢者の書 「わかったものを受け入れる、わからないものは受け入れられないと考えるのではなく、まずは受け入れるのだ」

投稿者: | 2024年6月15日

評価・レビュー

☆5/5

仕事も私生活も上手く行かず悩んでいたアレックスは、周りの雑音から抜け出し一人で考えたいと思い故郷で思い出のある公園に向かった。そこで賢者になるための旅をしているという少年 サイードに出会う。サイードはこれまで8人の賢者に会い、様々な教えを得て、9人目の賢者とこの公園で会う約束になっているそうだ。そしてこれまで出会った賢者たちの教えは賢者の書に記録されているという。アレックスは賢者の書が気になり、サイードに読んでも良いかと尋ねると、サイードは快諾。その賢者の書にはアレックスの人生観を変える物語が描かれていた。

みたいな感じで始まる物語です。

実際に賢者とサイードのやり取りを通して、人生に必要なこと、成功とは何か、投資とは何かなど、様々な視点で幸せな生き方をするためのヒントが書かれています。

小説でありながら、自己啓発本に近い感じです。

喜多川泰先生の本は、手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~運転者 未来を変える過去からの使者を読んでいて3冊目なのですが、どれもメッセージ性が強く、全体的に善というか、世の中を良いように捉えている印象です。

なので、素直に生きている人には、かなり刺さる内容が多いと思いました。

以下は本書から引用しながら、個人的に思ったことなどのメモ。

まずは相手の言葉を受け入れる

わかろうとするより、すべてを受け入れようとするのだ。
わかったものを受け入れる、わからないものは受け入れられないと考えるのではなく、まずは受け入れるのだ。
よいか、もう一度言うぞ。理解しようとせんでもよい。
言葉そのものを自分の中に受け入れようとしてみるのだ。

喜多川泰. 賢者の書. ディスカヴァー・トゥエンティワン. Kindle 版.

一丁目一番地の賢者の言葉で、なおかつ、一番実践が難しい言葉かなと思います。

特にわからないものを受け入れるというのは、なかなかできることではありません。

例えば、味の素なんかが、非常にわかりやすい例かなと思います。

味の素は昔からあって、世界が認める旨味成分の調味料です。

しかし、未だに味の素に対するネガティブな印象を持ち続けている人たちがいます。

味の素の成分はグルタミン酸で、グルタミン酸は昆布の旨味成分です。

言ってしまえば、昆布の美味しいと感じる成分を抜き出したものが味の素なのですが、それが理解できないので、受け入れることができないというわけ。

自分が出会った人の中で、一番驚いたのは、味の素は身体に良くないと言っている人がアジシオを普通に使っていたということ。

そもそもアジシオは味の素株式会社が作っている製品で、塩とグルタミン酸を混合したもので、言ってしまえば、塩と味の素を混ぜた商品です。

なのに、味の素は駄目だけど、アジシオはOKって意味がわかりません。

結局、味の素という理解できないものは受け入れられないけれど、アジシオという塩であれば理解ができるから受け入れられるという典型例だと感じました。

で、こういうことって結構多いんですよね。

そして、一度固定観念ができてしまうと、それを払拭するのはさらに難しくなってしまいます。

老害なんて言葉がありますが、まさに固定観念によって、新しい考え方を理解できず拒否している状態です。

そうならないためには、まずは相手の言葉を受け入れてみることが重要かなと思います。

受け入れた上で、内容を吟味し、正しいのか正しくないのかを判断するのが良いかなと。

とは言っても、その正しさを判断するのもまた難しいのですが・・・。

他尊心

お前の周りにいるすべての他人を、これ以上できないほど尊重し、尊敬する心、それが他尊心だ。
それをどんどん高めるのだ。

喜多川泰. 賢者の書. ディスカヴァー・トゥエンティワン. Kindle 版.

他尊心は造語のようです。

この他尊心は、人間関係においてとても大切だなと個人的には思いました。

単純に尊敬すること自体ではなくて、すべての人に対して、尊敬の念を持って接することが重要ということです。

人間は誰しもが自分は誰かよりも優れていると感じることで、自尊心を保っているように思います。

過去の例では、士農工商なんかがわかりやすいでしょう。

また、社会のシステムとしても、比較比較比較という感じで、人に上下を付けることが普通になっています。

それは競争心を煽ることで、より成果を上げることを目的としているのですが、個人的には逆にそれがデメリットになっていることも多いかなと。

自分の場合、会社で働いていたときにやっかみにあったり、嫌がらせを受けたりすることがあったりしました。

そのような嫌がらせなどは、まったくもって非生産的で、自分の人生の時間を無駄に浪費しているだけの行為でもったいないと思います。

また、個人的には嫌がらせなどがあったとしても、意に介することは無かったのですが、逆に私のそういう態度が火に油を注ぐようになっていたようです。

自分の場合、相手を下に見ているというわけではなく、関心が無かったというのが本音で、実は下に見ているよりも最悪な態度だと指摘を受けたことがあります。

いわゆる眼中にない状態で、人として比較の対象ですらないというわけです。

本当に良くなかったなと。

最低でも相手を人として見て、ちゃんと接していれば、いろいろと社内などのコミュニケーションが上手くいったようにも思います。

賢者というものは、なるものではない

残念ながら賢者というものは、なるものではない。
自らが自覚をしてなるものではなく、
期せずして人からそう呼ばれるようになるものだ。
賢者というものがあるわけではなく、
多くの者がそう呼ぶから、賢者だと認められる。
そういうものでしかない。

喜多川泰. 賢者の書. ディスカヴァー・トゥエンティワン. Kindle 版.

この言葉を読んで、真っ先に頭に浮かんだのは、以前勤めていた会社の社長です。

非常にパワフルで力技で仕事を進めるのが得意なタイプなのですが、口癖として「俺はもっと尊敬されても良い」「もっと俺を尊敬しろ」と言っていました。

尊敬しろと部下に命令するような人を、一体誰が尊敬するのだろうかと・・・。

賢者に限らず、その人に与えられる称号というか、その人を表している言葉というのは、自分相手に強要するものではなく、多くの人がそう呼ぶから、称号として成り立つように思います。

例えば、肩書。

箔をつけるための肩書って、本当にわかりやすいですよね。

話してみると、その分野のことをほとんど知らないことがすぐにわかってしまいます。

そういう肩書って、本当に意味がありません。

結局、実力が伴わないと、肩書だけあっても意味はないでしょう。

実力が伴っていないという点では、今の会社のシステムって、個人的に非常に違和感を感じています。

プレイヤーとして優れた人が、課長や部長になっていく昇進システムです。

そもそもプレイヤーとしての能力と、課長や部長として求められる能力は異なります。

わかりやすい例で言えば、スポーツ。名プレイヤーが必ずしも名監督というわけではありません。

というか、みんなそのことを知っています。

であれば、課長や部長などはマネジメント能力に長けた人がなるべきではないかなと。

つまり、プレイヤーとして能力が高いからと言って昇進するシステムの場合、マネジメント能力がない人が課長や部長になってしまうことがあるということです。

結果、課長や部長としてのマネジメント能力の無い、実力の伴わない人が肩書を持つことなります。

これは不幸以外の何物でもありません。

本人としても実力が発揮できないばかりか、マネジメント能力の無い上司の部下になった人は苦労するでしょう。

個人的にはプレイヤーとしても高い給料が貰えるシステムにして、それぞれの能力が発揮できるような形が良いんじゃないかなと。

まあ、今後社会がより成熟していくと、そういう形になっていくんじゃないかなと個人的には思っています。

アニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』みたいな世界に近い感じかもしれませんが、ある程度適正がわかったほうが、不幸な人を生みにくくなると思います。

また、適性が無かったとしても、自分で進む道を選ぶことができるのが自由でもあるかなと。

一番不幸なのは、適性が無いのに努力をせず、能力が無いことを他者の責任にすることです。

課長や部長などの権限のある人間がそれをやってしまうと、不幸な人間をどんどん量産するので。

実践は難しいが

他にも示唆に富んだ言葉がたくさんあって、個人的には非常に勉強になりました。

ただ、これを実践していくのは、なかなかに難しいなと。

それでも、長期的な視点で少しずつ、自分がなりたい自分へ、歩むことが大切なのだと思っています。

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