評価・レビュー
☆5/5
老子・荘子 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典は中国諸子百家の老子と荘子を取り上げた初心者向けの本。老子は全体の約半分、荘子はほぼ十分の一程度ですが、時代背景やそれぞれについての解説もあり、老荘思想についてざっくりと全体感を知りたいならおすすめです。
老荘思想の投げっぱなし感
これは個人的な感想ですが、本書を読んで個人的に感じたのは、老荘思想は結構投げっぱなし感が強いなという印象です。
全体として曖昧模糊とした感じがあり、明確な答えというものが用意されていないため、受け手側の知識や経験によって、受け止め方がかなり変わるだろうなと感じました。
例えば老子の無為自然。わざとらしいことはせず自然に生きるという意味ですが、そもそもわざとらしいこととは何だろう?と思うわけです。
老子は嬰児の状態がもっとも良い、つまりわざとらしさが無いと考えていたようですが、そもそも嬰児だけでは生きていけません。
つまり、嬰児だけでは社会は成り立たないという話。
荘子は絶対的な価値観を否定し、善悪だけでなく、生死、美醜、現実と夢など、どちらが良いとも言えないという思想を展開します。
ただ、社会においては、ある一定の価値基準が無いと法律もできませんし、それぞれが自由に生きてしまえば社会として成り立たないでしょう。
なので、老子にしろ荘子にしろ、主張はとても興味深いのですが、そこに明確な解答が無く、のらりくらりと明言することを避けているようにも思いました。
社会的規範が生まれ儒家などの隆盛の影響かも
で、個人的に思ったのは、この諸子百家の時代というのは、儒家などの登場もあって、社会的な規範ができつつある時代で、それに反対する考え方として、老荘思想が生まれたのではないかなと。
諸子百家が生まれたのも、そういう理由なのではないかなと個人的には考えています。
それまでは、ある程度の規範というのはあったと思いますが、それが人々の共通認識として存在していなかったというか、人それぞれ違っていた状態で、それを標準化していったというか、常識を作ろうとしていたというか、そういう時代だったんじゃないかなと。
そして、そうやってルールが生まれてくると、それに抗いたくなるのも人間の心情。
で、老子はそういう人達の考えを集めたもの、荘子はそういう考えの1人だったんじゃないかなあというのが個人的に本書を読んで感じたことです。
全文が書かれているわけではないので、あくまで本書を読んで感じたことなので、本書で取り上げられていない部分には、もしからしたら明確な社会のあり方というのが書かれているのかもしれません。
ただ、本書だけだと、規律は必要だけど規律で縛りすぎるのは違うんじゃない?的な印象を受けました。
無理せず自由に生きるという価値観
逆に言うと、国として社会として大きな枠組みがある中で、個人の自由も大切だよという考え方にもとれます。
どんな社会であろうとも、個人が自由に生きる権利はあるということです。
ただ、その自由というのはワガママに振る舞うということではなく、他者に依らず無理をせずに生きるということなのかなと。
これはある意味、現代の新しい価値観のヒントになるような気もしました。
今風の言葉で言えば、「自分らしく生きる」ってことなのかなと。老子にしても荘子にしても、根底に流れている考えの1つのように感じます。
人によって感じ方も違うと思いますし、また改めて歳を取って読むと、違った感想になるんだろうなあと思います。
そういう意味ではまた改めて違う方の訳本を読むのも良いなと思いました。
引用メモ
最後に個人的なメモも兼ねた引用。主に解説文から。
「和二其光一、同二其塵一」の二句は、「和光同塵」と成語にまとめられ、老子の処世の哲学を要約した言葉として、広く知られ、道を体得した人の生き方を示す言葉とされています。
儒家の仁義という愛情と正義にもとづいて民衆を治めよとの主張への反論です。天地は不仁、聖人も不仁、とは、真の偉大な支配とは、意識して人民を愛することではない、作為の無い自然な統治をおこなっていれば、その支配は永続し、また無限の効果が生み出される、
このわざとらしいことは何もしないこと=無為は、そのまま人間の社会にも当てはまり、政治の上でそれを実践するのが聖人です。このように、老子は決して政治に無関心ではありません。無関心をよそおった政治が最も効果的だとするのが、本音です。
老子によれば、人間は生まれたままの姿が心身ともに最も完全に近いものです。赤子(五十五章*1参照)をたたえるのはそのあらわれです。その生まれたままのものを、後天的に変えてゆくことは、完全さを損なう以外の何ものでもありません。
陰と陽とが対立し衝突すると第三のものが生じます。これを「沖気」といいます。「沖気」とは、陰陽二気が入り交じって生じた、調和のとれた状態をいうのです。
老子は人間にとって最も大切なのは自己の身体であるとし、足るを知り、止まるを知る寡欲によって、一身の安全を守れと説いています。
すべてのわざとらしい作為をなくすること、これが無為です。無為であるとは、人間の本然的な最も自然の姿であり、何事を為しても無駄と無理がなく、それだけに、必要なことは十分に成し遂げられます。これが「無為にして為さざること無し」であり、『老子』の中で繰り返して説かれています。
老子は本章冒頭の「小国寡民」(国は小さく、民は寡ない)を理想的な国家形態であるとしており、これは彼の住む農村の一村落をモデルとしたものに相違ありません。
です。『老子』は文字は学問と直結し、人に知識を与えるものであって、そのような文明の発展はむしろ人間に不幸をもたらすと、繰り返し述べています。そこで理想の国では文字を使用しない結縄の時代に戻れというのです。
荘子』胠篋編にも、至徳の世、文明に汚染される以前の理想の世には民は縄を結んでこれを用いた、といっています。