あくまで個人的な考えをつらつらと書いたものです。時とともに考えは変わっていくので、書いている時点で思っていたことのメモ的なもの。
目次
偽善とは
Wikipediaによると、
偽善(ぎぜん、英: hypocrisy)とは、特に宗教や道徳的信念に関し、真の性格・性向を隠す一方で、美徳または善といった見せかけの外観をつくることを言う。したがって、一般的な意味において偽善には「心や行いが正しいように見せかけること」、「見せかけの善行」[1]の意味を持ち、または「まやかし」の意味が含まれることがある。
偽善 – Wikipedia
と書かれています。
まあ、一般的に悪いイメージがありますよね。
でも、個人的には偽善って誰しもがやっていることなんじゃないかなと思っています。
道徳自体が人間の本性を隠すためのもの
簡単な思考実験をしてみましょう。
まったく道徳教育を受けなかった人はどうなるでしょうか?
答えは明白ですね。動物のように本能に従って生きるでしょう。
動物ですから、腹が減れば喰らい、眠くなれば寝る、自分が生きるために他者から奪うなんてのは当たり前に行動するわけです。
それが人間の本性と言っても良いでしょう。
じゃあ、道徳教育を受けた場合はどうでしょうか?
学校で学んだり、親が子どもに伝えたり、本などもあるかもしれませんが、様々な情報から人は学び、社会における道徳を習得します。
つまり、そもそも人間の本性というのは酷いものだから、そうならないように道徳があるわけです。
そう考えると、道徳自体が人間の本性を隠すための偽りの外観とも言えるのではないでしょうか。
それって偽善そのものなんじゃないかなと。
世界は偽善に満ちあふれている
さて、世の中から偽善が無くなったら、どうなるでしょうか?
みんな清く正しく美しく、まったく邪な考えを持たずに生きているのでしょうか?
人生で貴方はどれほど募金をしたのでしょうか?
道路に落ちているゴミを拾ったことはどのぐらいあるでしょうか?
嘘を付いたことは一度もないでしょうか?
挙げればキリがないですが、ちょっと魔が差すことは誰にでもあることです。
その時、行動を思いとどまらせるのが道徳ですよね。
でも、よくよく考えてみると、そもそも邪な考えを持った時点で、行動を改めたらそれって偽善ですよね。
だって、本性は邪な考えなんですから。
何が言いたいかというと、多くの人が偽善をしているという話。
無報酬で行動する人はいない
これは個人的に思っていることですが、世の中に無報酬で行動する人間はいないと思っています。
いやいや友達のためにプレゼントしたりとか、特に報酬は望んでいないよという人もいるでしょう。
でもそれって、友達が喜んでくれたら自分も嬉しいからやっていませんか?
それは自分が快楽を得るために友人にプレゼントしていると言えます。
そうなんです。必ずそこには何かしらのメリットがあるから、人間は行動するのです。
これも正確には偽善ですよね。
だって、最終的な目的は自分が嬉しくなることですから。
もし、無報酬と考えるのであれば、友達にプレゼントする際には匿名で行うべきです。またプレゼントしたこと自体が自己満足にならないように記憶を消すべきでしょう。
でもそんな人いませんよね?
偽善って悪いこと?
結局何が言いたいかというと、人間は日々偽善を行いながら生きているということです。
で、個人的にはそれは悪いことではないと思っています。
最終的に友達の笑顔で自分も嬉しくなろうとも、誰かが助かることで自己満足を得たとしても、結果として友達や誰かが少し幸せになっているのだから、良くない?って話。
社会全体としてプラスになっているのだから、偽善でも良いじゃんって個人的には思っています。
少なくとも犯罪をするより良くないですか?
偽善だ何だと誹謗中傷や汚い言葉を浴びせて、嫌な気持ちになる人が増えるより、偽善だとしても称賛してみんなハッピーになった方が良くないですか?
心の中を覗けないのに偽善と言えるか?
少し別の視点で偽善を考えてみましょう。
偽善とは本性を隠して、外面だけ良くみせるための行動です。
さて、偽善というためには、その人間の心の中を正確に把握する必要があります。
残念ながら、現代の科学力では人間の心の中を正確に把握することは難しいです。
そうなると、本性がわからないわけですから、その行為が偽善なのかどうかってわからないですよね?
何を持ってその人の本性が悪だと断定しているのでしょうか。
何かエビデンスがあるのでしょうか。
個人的には謎というか、正確に把握できないのだから、そもそも偽善と言い切ることはできないんじゃないかなと思っています。
偽善が憎々しい理由
世の中には「他人の評価を下げて自分の評価を上げようとする人間」が存在します。
会社でも居ませんか?
何かと否定して、自分では何もしていない人って。
そういう人間にとって良い事をして評価を上げている人間がいると相対的に自分の評価が下がるので、何とかしてその人間の評価を下げようとするわけです。
その時に使われる言葉が偽善というわけです。
ただ、これってよくよく考えるとブーメランなんですよね。
他の人の行動が偽善に見えるのは、自分がその行動をしたら偽善だと考えているから。
つまり、自分の本性は悪だと自分自身で認めているのです。
何とも皮肉な話ですね。
ちゃんと偽善ができるのが大人だと思っている
と、長々と書いてきたのですが、結局何が言いたいかというと「ちゃんと偽善ができるのが大人」なんじゃないかなって話です。
人間、誰しも邪な考えを持ってしまうことがあります。それをちゃんと律して良い行動ができるのが大人なんじゃないかなと。
自分の利益だけでなく、他者の利益を考えて行動できるのが大人なんじゃないでしょうか。
動物のような本能を理性によって制御して、良き行動をすると言い換えても良いかもしれません。
良き行動というのは、その時々で変わりますし、社会のルールによっても変わります。
だから、都度都度修正して、良き行動ができるのが大人なんじゃないかなと。
自分はそんなことを考えて「ちゃんと偽善ができる大人になろう」と中学生の頃に思いました。