痛みは教育に必要か? – アラン 幸福論の名言から考える

投稿者: | 2023年8月11日

アラン 幸福論 (岩波文庫)を読んで会社組織について感じたことを、つらつらと書いていきます。

現在だけの苦しみなんて無にひとしい

現在だけの苦しみなんて無にひとしい。
われわれは痛みを苦しむことよりも
痛みを恐れる気持ちの方が強い。

実際には無に等しくはないとは思いますが、痛みを恐れることの方がよっぽど苦しいという話なんだろうなと。

つまり、それほど痛みを与えるという行為は、脅しとしての効果があるということなのかなと思います。

また、逆に痛みを恐れすぎてもいけないって話でもあるかなと。つまり、痛みを恐れる気持ちは強いので、その分を差っ引けって話。

といっても、やっぱり痛いのは嫌ですよね。

痛みは教育に必要か?

子どもの頃、悪いことをすると、親にお尻を叩かれて、倉庫に閉じ込められました。

いわゆる躾的な感じかな。

お尻を叩かれたけど、自分の感覚ではそこまで痛く感じなかったので、かなり手加減はしてくれていたと思います。

あと、倉庫は抜け出し方を見つけたので、まったくもって自分には効果が無かったですね。

話がそれました。

言いたかったのは、子どもの躾として、痛みによる教育というか、痛みで覚えさせることは必要なのか?という話。

個人的にお尻を叩かれたことを覚えているけど、それが何の理由だったかは、あんまり覚えて無いんですよね。

皆さんはどうですかね?

親にブタれたりした経験は誰でもあると思うんですよ。その強さ加減とか、頻度とかはいろいろと有ると思うんですけど。

で、その時に何が原因だったのかって覚えている人ってどのぐらいいるのかなあと。

まだ分別がついていない頃は、ある程度痛みによる反射反応的なことで、危険を防げるような気もします。

ただ、ある程度成長して、分別がつきはじめたら、何か痛みとか罰則による教育って、そこまで意味があるのかなとか思ったわけです。

皆さんはどう思いますか?

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