アペブラの動画を見て、あくまで個人的な考えをつらつらと書いたものです。
目次
動画の感想
個人的に動画を見て思ったのは、目的と手段が逆になっているのではないかなと。
つまり、反対することが目的になっていて、代替案とかそういうレベルではないのかなと感じました。
反対することが目的になっていないか?
このあたりは、日本の政治における野党がわかりやすくて、与党に反対することが目的になっている政治家というか、政党ってありますよね。
選挙がわかりやすくて、与党の政策是か非かみたいになっていることあるじゃないですか。
これは個人的にですが、本来あるべき姿ってA政党が目指す社会や公約とB政党が目指す社会や公約をぶつけ合うことなのでは?といつも思っています。
そもそも打倒自民党って時点で、出発点も目的も違うだろうと。
もっと国民の方をみた目的を掲げた方が良いのでは?という感覚です。
で、日本における政治がそんな感じだから、とりあえず反対みたいな人たちに対して、代替案を求めることで、反対することが目的となっていませんか?という問いかけというか、言葉責めに近いかな、というのが起きているように個人的に感じています。
代替案が必要かどうかは目的に寄る
で、本論というか、そもそも代替案が必要かどうかって、目的に寄って変わるのでは?というのが個人的な見解です。
例えば、ある目標を達成しようとして新しい案が出された時、現状維持でも目標を達成できるのであれば、代替案は必要ないですね。新しい案に対して、現状維持の方が費用対効果が高いなどのメリットや、証拠となる情報を出して反対すれば良いので。
けれど逆に、ある目標を達成しようとして、現状維持では難しい場合は別ですよね。新しい案が出た時に反対しても、現状維持では難しいため、反対するのであれば代替案が必須と言えます。
前者の場合の議論は、新しい案か現状維持かどちらが効率的かを判断するのが目的で、後者の場合は目標達成のために案を出すことが目的です。
状況が違うという言葉がわかりやすいかもしれませんが、そもそも議論の目的が異なっていて、だからこそ反対するなら代替案が必要かどうかが変わってくると思っています。
というか、そもそも反対ではなくて、案を出すことが目的なので、反対するということ自体、目的にそぐわないんですよね。
某ブレストイベントでの話
これは個人的に経験したことなのですが、その昔某ブレストイベントに参加した時のことです。
ブレストとはブレインストーミングの略で様々なアイデアを出す集団発想手法のこと。
で、4つのルールがあります。
- アイデアに対して批判・否定をしない
- 変わったアイデアを歓迎する
- 質より量を重要視する
- アイデアをまとめる
参考:ブレインストーミングとは?4つのルール、やり方、流れを解説
ところが、いざブレストが始まってみたら、アイデアを一切出さす、他の人のアイデアを批判・否定する人が自分のチームにいました。
いや、ブレストだから、アイデアを出すことが目的なので、その精査は後ほどしましょうと言っても、一切話を聞いてくれません。
正直、ああ、世の中にはこういう人もいるんだなと思いました。
つまり、目的をしかっりと明示されても理解できないんだなと。
彼のやっていることは、みんなで駅伝を走ろう!と言って、一人だけタスキを渡されたらスタート地点戻るようなもの。
しかし、本人はそんなことは一切気にしていません。これは立ち位置を確保するやり方に問題があるのでは?と個人的に思っています。
反対することで自分の立ち位置を確保する人々
これは個人的に感じていることですが、世の中には反対することで自分のアイデンティティを確立している人がいるが少なからず存在するという話です。
前述のブレストでアイデアを出さず反対しかしない人は、まさにその典型例かなと。
反対するというのは簡単に自分の立ち位置を明確にできる手法で、まったく何も考えていなくても何か考えている風に見えます。
しかし、もともと自己の立ち位置が確立できていないので、反対の理由について突っ込んで話を聞いても詳細については答えてくれることがほとんどありません。
与党にとりあえず反対する野党がわかりやすい例です。反対することでポジションを確保できるというわけ。
実際には野党もいろいろと考えているのは知っているのですが、自分たちの立ち位置を明確にしていないので、どうしても与党に反対しているだけに見えてしまいます。
まあ、反対しているだけの人もいらっしゃいますが・・・。
代替案を作るのも才能
なぜ、そんなことが起きてしまうのかと言えば、代替案を作るのにも才能が必要だからです。
ブレストの例がわかりやすいですが、アイデアを出そうと言われても、出てこない人というのは一定数存在します。
これはアイデアだけではないですね。
例えば、目的や目標、コンセプト、ビジョンなどでも一緒です。
単純に言ってしまえば、代替案を作る才能が無いという話。ただ、それは能力が低いわけではなく、人によって得手不得手があるだけだと思っています。
しかし、人間というのは悲しいかな、才能が無いことを認めるのを恐れる生き物です。特にそれが周囲にバレるのを大変恐れます。
その結果、反対することで、代替案を作る才能が無いことを隠しているわけです。
これはアベプラの中でも少し話が出てきて、その分野に関する知識が無いから代替案が出せないと表現されていましたね。
確かに専門的すぎる内容については、理解が及ばないことはあるでしょう。量子論とか相対性理論とか。
しかし、そのような理論で無ければ、調べれば情報が出てきますし、ざっくりでも代替案を考えることは難しくないと自分は思っています。
ただ、悲しいかな人間には能力に違いがあるので、どうやっても代替案を考えつかない人もいるのです。
そのような人たちにとっては確かに代替案を出せという言葉は、非常に辛いものであるかもしれません。
できないをなぜ言えないのか
しかし、物事の本質はそこではないと個人的に考えています。
結論を言えば、代替案を作ることができないと素直に言えないことが、この議論の本質なんじゃないかなという話です。
前述したように人には得手不得手がありますから、代替案が作れないかったと言って、ダメな人間ではありません。
少なくとも現在無職の自分からしてみれば、普通に働いているだけで、素晴らしい能力を持っているなあと羨ましい限りです。
ところが、代替案を作ることができないと素直に言える人は、ぶっちゃけほとんど見たことがありません。
結局、そこで議論の食い違いが起きているように思います。
代替案を作るのも才能が必要で、時間をかけても、情報を集めても、作れないものは作れないのです。
であれば、私には代替案を作る力はありませんと素直に言えば良いだけだと個人的には思っています。
それのどこが悪いのでしょうか?
そして、自分で作れなければ誰か代替案を作れる人に頼めば済む話ですよね。
よくわからないけど、なんとなく反対は言い方を変えてみる
もう1つ、よくわからないけど、なんとなく反対って意見も個人的にはありだと思うんですよね。いわゆる感覚的なものという話。
で、それをちゃんと明確に言えば良いだけなのでは?と思っています。
よくわからないのであれば、その人に対してよくわかるように説明をすれば良いですし、なんとなくであれば議論をすることで反対ポイントが明確になるかもしれません。
人間の感覚というのは、結構合っていることもあって、間違っていることもありますけど、話をすることで明確になることが多いと思っています。
だから個人的にはそういう声を上げることで、その人を糾弾するのではなく、議論を深めていくことが大切なんじゃないかなと。
で、個人的な提案というか、考えなんですけど「よくわからないけど、なんとなく反対」ではなくて、「よくわからないから、賛成か反対か判断できない」という言い回しが良いのかもしれないなとは思っています。
まあ、そんなことをぼんやりと考えました。